晴気エリア特集(haruke)

小城市の北西部にある晴気地区は鎌倉時代から江戸、明治にかけて歴史的に重要なスポットが多くあります。

 

今回はそんな晴気エリアについてご紹介します。

目次

祥光山星厳寺(せいがんじ)

まずはじめにやってきたのは星巖寺です。

小城でいちばん古く、昔は大きなお寺だった円通寺の末寺として1684年に小城鍋島藩の二代藩主・直能が開祖したお寺です。

 

黄檗宗のお寺で、かつては本堂や禅堂、斎堂、知客堂、開山堂など多くの建物が建ち並ぶ大規模なお寺でした。

 

小城鍋島家の菩提寺として境内の奥に鍋島家墓所があり、歴代藩主の位牌が収められている報恩堂や、墓所の前には西川の平川徳兵衛の作とされる五百羅漢、1852年、九代直虎公により建立された楼門が残っています。

希望の杜(きぼうのやしろ)

星巖寺から高速道路沿いに西に進むと出てくるのが「希望の社」です。

 

希望の社は個人が所有している場所ですが、一般の方も見学することができます。

 

高台にあって見晴らしがいい休憩スポットになっています。

 

春や秋になると桜や楓(かえで)がきれいに色づき、奥には恵比寿大黒天が祀られていて、パワースポットとして訪れる人が多い場所です。

江藤新平 生い立ちの地 (印鑰さん)

さらに西に進むと現れるのが、地元で印鑰(いんやく)さんと呼ばれる印鑰神社です。

 

境内には「初代司法卿 江藤新平 生立ち之地」の碑があります。

 

佐賀の七賢人の一人、江藤新平が12歳のときに父親が佐賀本藩の上役と合わず郡目付を免職になったことで晴気村に移住してきました。

 

江藤新平も12歳から16歳までの4年間をこの地で過ごし、貧しい暮らしのなか藩校があった弘道館までここから毎日、往復6里(約24㎞)を通って勉学にはげみました。

 

江藤はその後、日本最初の司法卿に就任するなど明治政府で活躍しましたが、急ぎすぎた改革を批判され一時は逆賊となったすえ非業の死を遂げることに。

 

現在は名誉を回復され、佐賀の神野公園に銅像が立っています。

円光寺跡(徳川家康の側近、閑室元佶生誕の地)

印輪神社から北に少し歩いたところにあるのが、円光寺跡です。

 

現在はお寺の建物が残っていますが、こちらは徳川家康の側近、閑室元佶(かんしつげんきつ)生誕の地と呼ばれています。


※上の野写真は円光寺跡の近くにある、元佶和尚の没後390年を記念して植樹された楷(かい)の木です。

 

閑室元佶は安土桃山時代の1548年に小城で生まれ、幼少時に京にのぼって僧侶になりました。

 

徳川家康に知られるようになってからは足利学校の痒主(校長先生)や、関ケ原の戦いでは家康の軍事顧問として活躍。

 

関ケ原の戦いで鍋島勝茂は西軍だったため、戦後は領地没収される寸前まで追い込まれましたが、元佶によるあっせんで鍋島家は存続することになりました。

 

絶体絶命の鍋島家を救った閑室元佶に感謝した鍋島直茂・勝茂は、故郷の小城に三岳寺を建立し、寺領120石を与えました。

立中社(たっちゅうしゃ)

円光寺跡の近くにあるのが立中社です。

 

室町時代のころ祇園山城(東千葉氏)と晴気城(西千葉氏)に分かれていましたが、少弐氏の協力により東千葉氏の千葉胤頼(たねより)が晴気城を占領。

 

しかし、永禄2年(1559年)に竜造寺氏の支援を受けた西千葉氏が晴気城を攻め、胤頼は家来とともに討ち死にとなりました。

 

その遺骸は円通寺に葬られ、戦死した場所に創建されたのがこの「立中社」です。

九郎堂(くろどう)

天山社をつくった藤原安弘を祀るとされている九郎堂です。

 

建武3年(1336年)、阿蘇大宮司だった八郎惟直は多々良浜の合戦で重傷を負い、天山の近くで命を落とすことに。

 

その弟だった九郎推成は兄と共に討ち死にしたとされていますが、生き延びて佐賀に住み着いたとされる伝説とともに残るのがこの九郎堂(九郎神社)です。

妙見神社と妙台山見明寺(みょうけんじ)

下総の千葉常胤(つねたね)は源頼朝から全国に所領を与えられ、そのうちのひとつ、小城領は9代目宗胤(むねたね)が継承し、その子胤貞(たねさだ)が九州千葉氏となりました。

 

妙見様は北斗七星を神格化した神様で、千葉氏の軍神として厚く信仰され、一族が移住する時はかならず妙見様を伴ったことから、小城にも創建されたのがこの妙見神社です。

 

神社に隣接する「見明寺」は天台宗のお寺で、平安時代につくられた本尊の薬師如来は県の重要文化財になっています。

天授山本龍院(ほんりゅういん)

臨済宗の寺院で広いお庭のあるお寺です。

 

戦国時代、晴気城の城主だった千葉胤頼(たねより)とその子供、姉によって建てられました。

 

お寺の名前である「本龍院」は、立中社で討ち死にした胤頼の法名から名づけられました。

 

なお、胤頼の墓は円通寺に残っています。

寺浦廃寺(てらうらはいじ)

奈良時代から平安時代にかけて存在したとされる寺院跡です。

 

発掘調査によると法隆寺式の伽藍配置で、創建当初は金堂を中心に東西63m、南北71mの回廊や金堂西側に塔が建てられるなど大規模なお寺だったことが分かっています。

 

晴気廃寺とも呼ばれてますが、お寺に関する詳しい記録は残っていません。

まとめ

いかがでした?小城にある晴気エリアは多くの史跡が点在していますが、中でも

 

1)小城鍋島家の歴代藩主のお墓が並び、五百羅漢もある「星巖寺」

 

2)徳川家康の側近で、佐賀鍋島家の窮地を救った人の出身地「円光寺跡」

 

3)佐賀の英雄、江藤新平が多感な青年期を過ごした「印鑰神社」

 

など、歴史的に重要なところがいっぱいのスポットです。小城の来られたら是非どうぞ。

DATA

  • 名称:晴気エリア はるけえりあ
  • 住所:佐賀県小城市小城町晴気

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